Lattice in the Lettuce

The monologue of a scientist.

小保方と量子電池のアレの共通点

量子電池のアレのネタに食いついてくる変なのが一匹いる。それはまぁどうでもいいんだけど、量子電池のあの人と小保方の共通点というか、そんなのを考えてみる。

一言で言うと、宗教にハマりやすいタイプ、さらに自分の信念のためには、何をしても問題ないと思ってしまうタイプ、だろうか。何をしても、というのは、捏造でもヤラセでも、という感じ。

信ずるところのためには法でもなんでも破って、ただし事実だけは曲げない、というのが、本来の科学者だと私は思う。以前、エドワード・テラーを尊敬する科学者だと述べたが、まさに彼は、倫理なんか糞食らえで水爆を作りまくった点が評価に値する。科学のためには人類の滅亡さえ厭わない、マッドサイエンティストとしてこれほど素晴らしい人は他に居ないだろう。ただし、彼は事実を捻じ曲げるようなことはしなかった。

小保方も量子電池のあいつも、確実に「それは出来る、可能だ」と半ば宗教のように信じ込んでいる。周りが無理だと説いても、本人だけはその考えを変えないだろう。そういうタイプはもっとも科学者に不向きで、どちらかといえば職人に向いている。科学者と職人の大きな違いは、物事を客観的にみようとするか否か、ではないだろうか。

科学者の多くは、「一度は出来たが、このやり方ではダメだから、別の道を探そう」と考える。一方で職人は「一度出来たなら必ず出来る、何度でもやってみよう」となる。共に前向きな考え方だが、「一度出来たなら必ず出来る、絶対に出来る!出来ないなんてありえない!」となってくると話は別だ。科学や技術でなく、宗教じみて来るためだ。

宗教のまずい点は、絶対を仮定してしまい、それが定義と化してしまう点にある。
科学哲学でいうところの反証可能性の否定である。一つの物事に対し絶対は仮定出来ず、必ず否定の可能性は残る事が重要とする考え方だ。否定が可能だから議論が生まれ、完全な否定が行われなければ、それは正しいのではないかと周知され、定理となっていく。宗教はいきなり脈絡なく仮定を行って、直後に定義と定めてしまう点で、科学ではない。ID論などその極みだ。

小保方と量子電池のアレにとっては、出来る、というのが定義である。信仰といっても良いだろう。出来ない可能性は微塵も考えない。もはやその点において、科学ではなくなっているのに。