Lattice in the Lettuce

The monologue of a scientist.

有能と無能

とある板に貼られていたネタ話で笑った。書いた当人は格言でも呈するつもりなのか。

能力主義の下では、能力を発揮し成果を上げた人はどんどん昇進していくが、
いつかは能力の限界に達し、成果を上げることができなくなる。
すると、あらゆるポストは無能な人材によって占められることとなる。
心理学のこの法則をいまの企業社会にあてはめると、どんなことが見えてくるのだろうか。

よほどのバカが書いたんだろう、どうせ2ch中二病だろうとググったら、
http://www.president.co.jp/pre/backnumber/2006/20060306/1076/
なんと、有名な心理学の先生とのこと。なんでも、ピーターの法則というらしい。これを法則と認めた奴も相当なアホだ。

そもそも成果とは?

能力主義の下では、能力を発揮し成果を上げた人はどんどん昇進していくが、」
ここまでは問題ない。問題はその次。
「いつかは能力の限界に達し、成果を上げることができなくなる。」
これはどうみても間違いだろう。正しくは
「いつかは能力の一時的な限界に達し、同時期においては同程度の成果しか上げられなくなる。」
である。

成果というのは絶対値だから、上げられなくなる事は絶対にありえない。サボったりバックれたりでもしない限り。似たような単語に経験がある。
目標は相対値であり、達成度も相対値だ。
ただ成果は、「ダメだった」という事も成果なので(失敗は繰り返さないという観点において)、やったらやっただけプラス方向の成果になる。ダメを積み重ねればいつかは成功するので、それすら出来ない無能(情報の整理が出来ない)を除けば、無駄にはならない事になる。

初めからなんでも出来る奴など存在しない。成果を積み重ね、経験を踏んで能力が向上するのだ。

まぁ、まさかとは思うが「成果を上げる」を「成果を出す」でなく「成果の数を上昇させる」という意味合いで使っていたなら、文章的に間違いではないが、日本語の一般的な用法ではないだろう。訳者がクルクルパーの可能性もあるから、元の文章を推察すると

能力主義の下では、能力を発揮し数値的な成果を出した人はどんどん昇進していくが、
いつかは能力の限界に達し、それ以上の成果を出せなくなる。
するとあらゆるポストは無能な人材になり・・・・

これもおかしい。
それ以上出せないと無能である、という定義がまず変だ。

無能とは?

一般に、成果を経験に変える事が出来ない、ようは情報の整理が出来ず蓄積する事が出来ない類の人が居る。これを無能と呼ぶ。
何度やっても同じ失敗を繰り返して成長の無いやつ、これは出世コースでは初めに除外されてしまうため(コネや年功序列を除けば)、能力主義では存在自体を消去する事が出来る。

「あらゆるポストは無能な人材によって占められることとなる。」
これは、
「あらゆるポストは未だ発展途上ではあるが、それなりの成果を出せる有能な人材によって占められることとなる。」
なら正解だろうか。

だいたい、すべてのポストが無能になったら、その瞬間その企業は倒産してしまうではないか!

思うにピーター君は無能である。

“これ以上成果を上げられないから無能だ”という考え方そのものが、無能な証となる。

先ほども示したように、成果はいかような物でも積み重ねれば経験になるから無駄にはならないし、“ある一定のところまでは成果を上げて来た”のだから、突然それがゼロになって、一切の成果を上げられなくなる事はありえない。

例えば、前年度5000万売り上げてきた営業が、今年度6000万の目標を達成出来なかったとしても、0円になるわけではない。5000万以上6000万以下だった、というだけだ。前年度から売上を大きく落としてしまい、4000万や3000万になったとしても、一時的なものであれば無能とは言えないではないか。

他にも例えば、課長補佐から課長になった人物を考えるとする。1年目、統括する人員数が増えた事で目の行き届かないところが生じ、スケジュールに遅れが生じて納期未達の割合を上げてしまったとする。2年目も部署間の連携に問題が生じ、歩留まりの解消が遅れたとする。

これで、彼を無能と判断する会社があるか?答えはNo!だ。多くの、そして普通の会社なら、改善のために色々な取り組みが動く。

・課長自身による業務遂行の見直し。
・上長による問題点の洗い出しと指導。
QCサークル外資であればQCチーム)でのテーマ化。

これによって、課長自身の能力の問題なのか、あるいは根本的要因が他にあるのか、原因が究明されていく。結果、物理的なコミュニケーション手段の問題であればUC導入が検討されたり、労働環境の問題ならその改善、個人の能力問題であれば教育プログラムの拡充や指導・・・・という事が行われ、全体的な解決が模索される。

ブラック企業やら中小零細でもなければ、誰か一人に責任押し付けて無能呼ばわりなどということは、普通ありえない。そんな方法では、今後もまた同じような事態に陥る可能性があると、誰でも想像出来る。
会社組織は、ある程度の能力と経験のある人材であれば、誰がどんな役にどう就いても問題ないような普遍性・安定性を求めたがるものだ。能力的に問題ある人員でも、教育出来るなら教育し、出来ないなら周辺環境を変更し、それでもダメなら入れ替えということはあるが、能力限界を無能呼ばわりする文化はない。普通は。

真の能力主義

ところで、本当に、完全な能力主義になっていれば、企業は問題ないと私は思う。
問題となるのは、コネや世襲などでトップ近辺に無能が配置されてしまい、この害悪によって能力主義の根本が揺るがされる場合と、一辺倒な官僚主義の能力判断しか行えない、これまた無能が出世してしまうタイプの能力主義である。

さらに問題となりうる事としては。

日本企業の多くは「無垢でポテンシャルの高い人材を仕入れて、自分好みに教育していく」という立場を取りやすい。人事部が幅を効かせている現状を見れば一目瞭然だろう。人材のポテンシャルは科学と同じように、スカラーではなくベクトルを持っている値である。向き不向きは確実に存在するのだ。日本の採用や能力主義の多くはスカラーで判断しがちなため、正確な起用が難しい。たまに上の方に頭の良い奴が居て、人材のベクトルを見抜いて最適な配置を行うと、抜擢云々言われるケースがある。抜擢ではなく、普段からそうあるべきなのだが。
溶解度パラメータはHildebrandのものでは不正確で、Hansenのものを使ってこそ、ようやく評価に値する。

終わりに

もちろんこれは理想論的な能力主義の捉え方ではあるが、有能無能という意味合いについては、理想でも現実でも大した違いはないので、間違いとは言えない。
完全な間違いは、学習による能力の向上を否定し、成果を成功と勘違いして偉そうな事吹聴したピーター君、もしくは意訳した訳者だろう。