Lattice in the Lettuce

The monologue of a scientist.

盗作デザイナー佐野研二郎には哲学がない

東京オリンピックのエンブレム問題の佐野研二郎だが、セカンドライフからデザイン盗用していた件というのも出てきたようだ。
http://www.yukawanet.com/archives/4919402.html
博報堂関係者で受賞を回していた事も発覚。
http://matometanews.com/archives/1773521.html
言い訳は論理性のヘッタクレもない見苦しさ。
https://www.youtube.com/watch?v=ai2dzb5Ho_Y

幾何学的デザインの背景には、必ずと言っていいほど、数学的・哲学的な思考過程が登場する。ところが佐野は、イメージだけで仕上げました的な言い訳をしている。腹立たしい限りだ。

デザインには理屈がある

幾何学的図形デザイナーの多くは、テーマを自己流の解析課程を経て論理的・数学的に得られる複雑な図形を導き、さらに抽象化することで完成形としている。そういったバックプロセスは表面的には語られないものの、深く突っ込まれた時や、なぜそのデザインに至ったのか説明を求められた時には、自己のアイデンティティを披露する格好の場として、数学者の如くウダウダ説明したがるものだ。

佐野が記者会見で、ホワイトボードにグダグダ数式を書きまくって、そういった議論をおっ始めたら、世界中の誰もが佐野の言う事を信じただろう。芸術家とはそういった類の人間だと思っている人は多いはずだ。

例えば、とあるデザイナーが、美術コンテストのロゴマークを考えるとする。
そこでデザイナーは、美とはなんだろう、という非常に曖昧な命題にチャレンジする。
人はなぜ芸術を美しいと感じるのか、デザイナーはその解を、神の領域へ到達しようとする、あくなき挑戦であると論じたとする。神への挑戦者の代表格として数学を、そして数学だけでは割り切れない黄金比を挙げる。そこで一定の議論を行った後、その仮想オブジェクトを抽象化出来るモデルとしてオイラーの式を出す。

オイラーの式はe^ix = cos x + i sin xだが、xの値を変えると、右辺は複素平面で単位円を描く。この美しさについてはファインマン物理学にも述べられている。この美しさは文字の羅列より生み出される美、即ち人の作りし演繹的な美だと言い切る。無論、神学を持ち出し「初めにあったのは言葉だ」と言い切り、これを帰納性と演繹性の極限だ、とする議論もアリだ。

一方、ネイピア数を含む左辺は何度微分してもd/dx・e^x = e^xで不変であり、神の領域に他ならないと定義する。その右辺と左辺を結ぼうとする事こそ美しさではないのか、と結論付ける。そして単位円とネイピア数のグラフを突き合わせ、それぞれの位置や大きさ、色などについて更に議論を加えて完成形を導いていく。

そういった、デザインの構築課程というのは、個人個人の哲学が大きく影響するものであり、そうであるからこそ独創性が生まれてくるのだ。画家、作家、彫刻家、その他様々な芸術家が普遍的に持つ才能洒脱風格品格は、哲学よりいづると言って良いだろう。

佐野の言い訳には、彼の哲学が何も現れていない。元々、持っていないのではないか?彼が行ってきた数々のデザインには、源流を同じくする独創性が無いようにも思える。

盗用だからこそ、何も語れない

通常、デザインの審査は、デザイナーが何を着想にどのような課程を辿って、なぜその作品に行き着いたのか、といったところまで知った上で決めていくのがスジといえる。特に幾何学的図形は、先に述べた通り背景として数学的哲学を多分に含むものだから、審査者にも理工学の知識が求められるし、主観的な感想だけで決めてしまっては、審査者の権威的にも問題が生じる。

佐野は身内(博報堂ブレーン、佐野研二郎浅葉克己、長嶋りかこ、高崎卓馬など)で、各コンテストで賞を回していただけだから、実質的に誰も何も審査などしていないのだろう。広告代理店の無言の圧力でマスコミを蹴散らして賞金だけ吸い上げる、詐欺師と何ら変わりない所業の自称デザイナーではないか。

幾何学的図形のデザインをしておきながら、何も論証が出来なかった事こそ、デザイン盗用の証拠だと私は思う。