Lattice in the Lettuce

The monologue of a scientist.

ネットコミュニティは過渡的段階の直接民主主義である

何やら今回の佐野研二郎盗作エンブレム事件を2ちゃんねらーが"裁いた"事について、戦慄を感じている人が居るようなので、少々意見を書いておこうと思う。

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トラバ先の人は、「ネット人民裁判が、とうとう国家レベルのプロジェクトをもひっくり返すようになった」事へ懸念を感じているらしい。その理由としては「統制がなく立場の不確かな人々による欲望によるものだから」だとしている。

しかし私は、そういった考え方こそ「世論形成は特定の利害関係やイデオロギーによって動く形ある組織に任せるべきだ」という、危険な思想に他ならないように思う。佐野事件ではマスコミの大半が利害関係に注視し、報道しない権利を行使していた。恐るるならば、ソッチの方ではないのか。

報道というのは、報道機関以外してはならないものではない。個人が報道したって別に構わない。明確な論拠を提示した上でなければ世論は反応しないし、論拠が捏造であればすぐに忘れ去られる。それは報道機関の報道だろうと、個人のネット書き込みだろうと、まったく変わらない。

メシウマ状態はマスコミも同じ

私はこのエンブレム事件をずいぶん早い段階に知り、自らもTwitter他で佐野研二郎を叩きまくった。トートバッグの件では、セカンドライフ内(当初はセカンドライフ内の作品をパクっていると吹聴されていたため)にて、作者に対し英文で(セカンドライフ内の公用語は英語だから)通報もした。

そのことを、「なぜやったのか?」と問われれば、トラバ先の人が言うように、メシウマ状態な観念があったから、だと思う。多くのネットユーザ、2ちゃんねらー達の原動力もメシウマにある事は否定出来ない。

しかし、それならマスコミはどうだろう?私はマスコミも基本的にメシウマで動いているように思う。面白くなければ報道しない、自社のイデオロギーに合致しないものは報道しない、昨今問題視されているマスコミの姿勢は、ネットユーザの「メシウマ」観念と大差ない。

マスコミの大義名分は「権力の監視」とか「知る権利の保障」といったものだが、実際そのように機能しているわけではない。佐野の一件では、佐野が大手広告代理店の関係者でもある事から、報道自体がほとんど行われなかった。記事を書いた記者は居るのかもしれないが、「博報堂やら電通に喧嘩売るのか?」と一蹴されて終わったのだろう。小保方事件やらゴキブリペヤングであれほど大騒ぎしたマスコミが、佐野事件ではダンマリを決め込んでいた。

大衆がメシウマを喜ぶから、メシウマ記事を作って載せる。メシウマしたいけど利害があれば別途考える。マスコミは単に、組織立ってメシウマを行っているに過ぎず、2ちゃんねらーとの違いは、個人か団体かの違いしかない。

もちろん、どちらが危険かと言われれば、マスコミの方が遥かに危険だ。企業である限り総意はあり得ず、ほんの数人の意思で決定されてしまうためである。

報道の自浄作用

話は少々変わるが、ネトウヨと呼ばれる存在は、いかようにして生まれたものだろうか?
これはネトウヨと呼ばれる人々についてではなく、あるイデオロギーを根底に持つオブジェクトが存在意義を社会において見出されたのか、という命題だ。コミュニティにおいて存在意義のないものは淘汰されてしまうのが常なのだから、ネトウヨにもある一定の意義は存在するだろう。

私はこれを、公平、公明正大な情報共有の行われなくなった現代における、自浄作用の一種だと捉えている。

日本の報道機関による報道の多くは、理想主義改革派による、現実性の欠如した机上の空論であるといったケースが多い。安倍首相を辞めさせろ的な報道は、それなら誰を首相にしどういった政策を以って望むべきか、という改革の方向性を持たず、単に安倍が気に食わないから辞めさせろとしか聞こえてこない。

理想主義があるのなら現実主義も報道されるべき(安倍の立場は現実主義改革派だろう)だが、そういった報道はあったとしても極少数である。自由主義であってもなくてもマジョリティは常に中立であるわけで(北朝鮮のような宗教国家であったとしてもだ)、ノイジーマイノリティだけが報道されるような事態になれば、必ず中立に引き戻そうとする自浄作用が生まれるはずだ。ネトウヨが現実主義で安倍・自民寄りになるのは至極当然である。

逆に中国のネットは批判型の理想主義改革派が主流だ。もちろんそれは、国家による統制への反発が原動力となっている。中国においてネトウヨは存在しない。居るのはネトサヨである。

イデオロギーの偏りは、ある組織においても社会においても、ひいては国家においても地球全体においても、一定の期間を経て中立方向に修正されていく。全部足したら0になる。化学的には平衡状態と呼ぶ。

ネットコミュニティと直接民主主義

2ちゃんねるにはスレ速度、Twitterにはお気に入り数やRT数といった、参加者にどれほど注目されているのか、といった数値的指標が存在する。胡散臭いネタ、ソースや論拠の不明確なネタは、それらの数値がとても低く、逆に明確かつ話題性を伴うなら高くなる。

不特定多数がどの程度注目するかということは、裏を返せば何を考え何を決めなくてはならないのかを選別する指標であり、殊に政治や経済など社会的に重要なテーマであるなら、世論形成を成しやすいテーマでもある。

ならばこれは、直接民主に至る過程の一つではないだろうか。
直接民主制において重要な事は、情報の正確な共有と選択肢選択方法の明文化にある。このうち少なくとも情報共有においては、マスコミによる報道よりは(報道しない権利等は存在し得ないために)正確性が期待される。無論、参加者の文章構成力や分析解析力等の知的水準、また中立性に関する問題等多々あるため、これをダイレクトに社会的意思決定へ応用する事など無理に等しいとは思うし、そうする事のメリットはあまり見出だせない。

が、直接的であるが故に本来あるべき民主主義の理想理念には、かなり親しいのではないかと考える。

トラバ先の輩は「今日日のインターネットには落ち度のあった人間を引きずり落としてやりたい欲求や、徒党を組んで誰かに影響を与える快楽が充満している」と、危険性を述べている。
しかし、そういった欲望や快楽だけで総意がなされる事は100%ありえない。総意というのは、先導者が存在しなければ、平均的な意見になるからである。

危険なのは、先導者が確実に存在するマスコミの方だ。