Lattice in the Lettuce

The monologue of a scientist.

知的障害者が存在しなければならない理由

植松聖は聖人なのか?

植松閣下のお言葉

「障害者が人間ならば、彼らが罪を犯した時同様に裁かれるはず」
「知的障害を理由に裁かれないという事実は、彼らが人間ではないことを証明している」
「氏名が公表されず遺影もない追悼式は、彼らが人間として扱われていない証拠と考えております」
「私は介護施設で、数年間現場で働いてきた」
「彼らが家族や周囲に与える苦しみ、そして使われる膨大な費用、職員が置かれている過酷な労働環境を見てきた」
「あなた方はなぜ、施設に足を運んだことすら無いのに、理想論をさも正論のように述べることができるのか」
「あなた方は一度でも介護に携わったことがあるか?少しでも現場を知れば、介護は綺麗事だけでは無いことがわかるはずだ」

一見すると、ごもっとも。しかしこれは、かなり一方的な見解だと私は思う。

知的障害者の存在意義

感情論はさておいて、池沼は「生きるに値しない命」ではなく、しっかりと存在価値があると私は思う。

その最たるものは利権だ。日本には障害者基本法や障害者総合支援法という法律があるし、国連は「障害者の権利に関する条約」を発布しているし、ここらへんでメシを食っている官僚や自治体の要職、そして数多くの民間企業がある。池沼は身障より手間がかかり、カネもかかる。だからこそ、多くの利権が生まれる。そういった人々にとって池沼は飯のタネなので、勝手に粛清してはいけない。

介護士ごときが苦労しようが、生んじゃった家族が泣こうが喚こうが、利権の前にはハナクソ以下だ。
平成30年度の障害保健福祉関係概算要求は1兆8666億円。毎年1000億円規模で増えている。
B-CASカードをクラックしたやつの顛末がどうなったかは、よくご存知だろう。利権に楯突く事は万死に値するのだ。